スマート農業技術による温室効果ガス排出量削減:精密施肥・土壌炭素貯留で実現する環境負荷低減と経営効率化事例
はじめに
近年、農業分野における環境負荷低減、特に温室効果ガス(GHG)排出量の削減は世界的な課題となっています。国際的な合意や消費者の環境意識の高まりを受け、持続可能な農業への転換が求められています。従来の農業慣行では、過剰な施肥による亜酸化窒素(N2O)排出や、土壌有機物の減少による炭素放出などがGHG排出の要因となることがあります。
本記事では、スマート農業技術を導入することで、これらの課題を解決し、温室効果ガス排出量を大幅に削減すると同時に、経営効率も向上させた農業生産法人の事例を紹介します。この事例は、技術の導入が環境面だけでなく、ビジネス面にも貢献し得ることを示すものです。
事例対象の課題:従来の慣行農業における環境負荷と非効率性
本事例の対象となったのは、大規模な露地栽培(主要作物:小麦、大豆、飼料用米)を行う農業生産法人です。この法人は、広大な圃場を管理しており、従来の慣行に基づいた施肥管理を行っていました。具体的には、圃場全体の平均的な土壌診断結果や過去の経験に基づき、一律または大まかな区分けでの施肥を行っていました。
この慣行にはいくつかの課題がありました。まず、圃場内の土壌特性や生育状況のばらつきに対応できていないため、部分的に肥料が過剰になる箇所が発生し、これが土壌からの亜酸化窒素(N2O)排出の一因となっていました。N2Oは二酸化炭素の約300倍の温室効果を持つ強力なガスです。また、必要以上の肥料投入はコスト増にもつながっていました。さらに、土壌有機物の管理についても、具体的なデータに基づいた管理は行われておらず、炭素貯留ポテンシャルを十分に活かせていない状況でした。環境規制の強化や、将来的なカーボンクレジット市場への参入を見据え、より精密で環境負荷の低い農業体系への転換が喫緊の課題となっていました。
導入されたスマート農業技術
この課題解決のため、以下のスマート農業技術が連携して導入されました。
- 高精度位置情報システム(GNSS/RTK): 圃場内の正確な位置情報をセンチメートル単位で把握するために導入されました。これにより、後述する各種データの紐付けや精密作業が可能となります。
- 土壌センサーネットワーク: 圃場全体に複数のセンサーを設置し、土壌水分、温度、EC(電気伝導度)、pH、土壌呼吸(土壌微生物活動の指標)などをリアルタイムで計測します。
- 気象データ連携システム: 地域の気象情報に加え、圃場近傍に設置した小型気象計からのデータを収集し、土壌データや生育データと統合します。
- 生育・収量データ収集システム: ドローンによる空撮画像(NDVIなどの植生指数)、手持ちセンサー、収穫時の収量コンバインに搭載されたセンサーなどから、生育状況や収量に関するデータを収集します。
- 農業データ統合・解析プラットフォーム(AI搭載): 上記1〜4で収集された全てのデータを統合し、AIが分析を行います。分析機能には、圃場内の土壌特性・生育状況のばらつきマップ作成、地点ごとの最適な施肥量・種類の推奨、収量予測、GHG排出ポテンシャル予測などが含まれます。
- 可変施肥機: データ解析プラットフォームからの施肥マップ情報を受け取り、走行しながら圃場内の地点ごとに肥料の種類や施肥量をリアルタイムで調整できる農機です。
- 土壌炭素量簡易計測技術: 土壌中の有機炭素量を簡易的に、かつ比較的高い頻度で計測できる技術(例:近赤外分光法などを応用したセンサー)を導入し、経年的な土壌炭素量の変化をモニタリングします。
技術が課題解決に貢献したプロセス
導入された各技術は密接に連携し、以下のプロセスで課題解決に貢献しました。
まず、高精度GNSSを基盤として、土壌センサー、気象データ、生育・収量データなど、圃場に関する多種多様なデータが農業データ統合・解析プラットフォームに集約されました。このプラットフォームに搭載されたAIは、これらのデータを横断的に分析し、圃場内の細かな区画(例えば10m×10mのグリッド)ごとに、その区画の土壌特性、生育状況、過去の収量、そして気象条件などを考慮した最適な施肥計画(肥料の種類、量、タイミング)を算出しました。この計画は、単に収量最大化を目指すだけでなく、N2O排出のリスクを最小限に抑えることも考慮に入れています。
次に、算出された精密な施肥マップ情報が、高精度GNSSで自機の位置を正確に把握している可変施肥機に送られます。可変施肥機は、マップ情報に基づき、圃場を走行しながらリアルタイムで施肥量・種類を自動調整して散布しました。これにより、圃場全体で必要最低限かつ最適な施肥が実現し、肥料の過剰投入が大幅に削減されました。
また、土壌炭素量簡易計測技術を用いて、定期的に圃場各所の土壌炭素量をモニタリングしました。データ解析プラットフォームは、施肥管理や残渣処理などの営農活動と土壌炭素量の変化との関連性を分析し、炭素貯留を促進するような土壌管理方法(例:緑肥の利用、不耕起栽培の検討など)に関する示唆を提供しました。これにより、単なる排出削減だけでなく、土壌への炭素貯留によるGHG吸収源としての機能強化も目指せるようになりました。
これらのプロセスを通じて、従来の画一的な管理から、データに基づいた圃場内のばらつきに対応する精密な管理へと転換が進みました。
導入によって得られた成果
このスマート農業技術導入により、農業生産法人は以下の具体的な成果を得ることができました。
- 温室効果ガス排出量削減: 特に亜酸化窒素(N2O)の排出量が、導入前の慣行栽培と比較して約25%削減されました。これは、精密施肥により過剰な窒素肥料の投入が抑制されたことに起因します。また、土壌炭素量のモニタリングにより、炭素貯留ポテンシャルの高い区画や管理方法が特定され、長期的な炭素吸収源としての機能強化に向けた取り組みが進んでいます。
- 肥料コスト削減: 精密施肥により、圃場全体での肥料使用量が最適化され、肥料コストを約15%削減することができました。これは、環境負荷低減と同時に直接的な経営改善につながる大きな成果です。
- 収量・品質の安定化: 圃場内の土壌・生育状況に応じた最適な施肥が行われた結果、圃場内の生育ばらつきが減少し、収量・品質が安定しました。特定の作目では、平均収量がわずかに向上した事例も見られます。
- 作業効率向上: 可変施肥機による自動調整により、施肥作業自体にかかる時間は従来と大きく変わりませんが、施肥計画の精度向上により、無駄な手戻りや追加対応が減り、全体的な管理効率が向上しました。
成功の要因分析
この事例の成功要因としては、以下の点が挙げられます。
- 目的の明確化: 単に技術を導入するだけでなく、「GHG排出量削減」と「経営効率化」という明確な目標を設定し、それに貢献する技術の組み合わせを選定したこと。
- 技術連携とデータ統合: 個別のセンサーや機械だけでなく、それらを連携させ、集約したデータをAIで解析するプラットフォームが核となったこと。これにより、圃場全体の状況を「見える化」し、精密な意思決定が可能になりました。
- 現場への浸透: 可変施肥機の操作やデータプラットフォームの活用について、オペレーターへの丁寧な研修とサポートが行われたこと。技術導入は現場での活用があって初めて成果につながります。
- 段階的な導入と検証: 全ての技術を一斉に導入するのではなく、効果検証を行いながら段階的にシステムを拡張していったことも、リスクを抑えつつ着実に成果を出す上で重要でした。
今後の展望と応用可能性
今回のGHG排出量削減に向けた取り組みは、他の作物や畜産分野にも応用可能です。例えば、施設園芸における暖房・冷房のエネルギー使用量最適化、家畜の飼養管理データ分析によるメタンガス排出抑制など、GHG削減の切り口は多岐にわたります。
また、今回の事例で構築されたデータ統合・解析の基盤は、GHG排出量削減だけでなく、病害虫予測、水管理最適化、高品質化、さらにはカーボンクレジットの認証取得に必要なデータの収集・管理にも活用できる可能性があります。将来的には、サプライチェーン全体での環境負荷「見える化」や、消費者に向けた環境配慮型農産物のブランディングにもつながるでしょう。
まとめ
本事例は、スマート農業技術、特に精密なデータ収集、統合、AIによる解析、そして実行(精密施肥)を組み合わせることで、農業由来の温室効果ガス排出量削減という環境目標と、肥料コスト削減や収量安定化といった経営目標を同時に達成できることを示しています。単なる効率化ツールとしてだけでなく、持続可能な農業経営を実現するための強力な手段として、スマート農業技術への期待はますます高まっています。技術ベンダーにとって、このような環境価値と経済価値を両立させるソリューション開発は、今後重要なビジネス機会となるでしょう。