AIと根域センサーで実現する精密水・養分管理:地下データが作物生産を変える事例
はじめに
スマート農業技術の進化により、圃場の様々なデータ取得が可能になっています。気象データ、土壌表面のセンサーデータ、生育を捉える画像データなどが一般的ですが、作物生産において非常に重要な要素でありながら、これまで把握が難しかったのが「地下部」、特に作物の根が張る「根域」の環境です。本記事では、根域センサーとAIを組み合わせることで地下部環境をデータ化し、精密な水管理・養分管理を実現することで、作物生産の最適化に成功した事例をご紹介します。この事例は、従来の経験や地上部の観察に頼った管理から脱却し、地下の「見えない情報」を活用することで、生産効率、品質、そして環境負荷低減に貢献する可能性を示しています。
事例企業と抱えていた課題
今回ご紹介するのは、高付加価値の果樹栽培を手がける農業法人A社です。A社では、高品質な果実を安定的に生産するために、きめ細やかな水管理と施肥を重視していました。しかし、従来の栽培方法では、土壌表面の乾燥具合やタイマーによる一律の灌水、葉色の観察に基づく経験的な施肥判断が中心でした。
この方法には、以下のような課題がありました。
- 根域環境の不確実性: 地上部の状態が良くても、土壌深部の水分状態や酸素濃度、塩類濃度などが根にとって最適であるかは分かりませんでした。特に果樹は根が深く広く張るため、地表面だけの情報では全体の根域環境を把握できませんでした。
- 過不足のリスク: 地下部の状態を正確に把握できないため、水のやりすぎによる根腐れや酸素不足、養分の溶脱、あるいは乾燥ストレスによる生育不良のリスクがありました。
- 資源利用の非効率: 必要量以上に水や肥料を与えてしまうことで、コスト増に繋がるだけでなく、環境への負荷も無視できませんでした。
- 生育ムラの発生: 経験に頼った管理では、圃場内での土壌条件のバラつきに対応しきれず、生育や品質にムラが発生することがありました。
- 病害リスクの増加: 過湿状態は土壌病害のリスクを高めましたが、その兆候を早期に捉えることが困難でした。
これらの課題は、生産コストの最適化や収量・品質のさらなる向上、そして持続可能な農業経営を目指す上で、克服すべき重要な壁となっていました。
導入されたスマート農業技術
A社はこれらの課題を解決するため、以下のスマート農業技術の導入を決定しました。
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根域センサーネットワーク:
- 土壌水分センサー(誘電率式、張力計など)、土壌温度センサー、土壌EC(電気伝導度)センサー、土壌ガス(酸素、CO2)センサーなどを、樹の根域が広がる深さ・範囲にわたって複数設置しました。これにより、根が実際に活動している領域の水分、養分濃度、酸素状態をリアルタイムで計測可能にしました。
- センサーデータはIoTゲートウェイを通じてクラウドプラットフォームに集約されます。
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データ収集・統合プラットフォーム:
- 根域センサーデータに加え、気象データ(気温、湿度、日射量、降水量など)、地上部センサーデータ(葉面温度、樹液流速など)、生育観測データ(樹高、幹周り、果実肥大データなど)など、様々なデータを統合して蓄積・管理するプラットフォームを構築しました。
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AIによる生育モデル構築・分析:
- 蓄積された膨大なデータ(地下部環境、気象、地上部生育、過去の収量・品質データなど)をAIが学習し、作物の生育段階や外部環境に応じた根の活動状況や最適な水・養分要求量を推定するモデルを構築しました。
- AIは、地下部環境データから水分ストレスや酸素不足、過剰な塩類集積といった異常を早期に検知し、その影響を予測します。
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精密灌水・施肥システムとの連携:
- AIによる分析結果や水・養分要求量の推定値は、自動灌水システムおよび液肥混入器に連携されました。これにより、必要なタイミングで、必要な量だけ、最適な濃度の水と養分を作物に供給する「精密管理」が可能となりました。
課題解決と成果
これらの技術導入により、A社は以下の課題解決と具体的な成果を得ることができました。
- 精密な水・養分管理の実現: AIが根域センサーデータに基づき、その瞬間に最も必要な水や養分の量を判断するため、過不足なく供給できるようになりました。例えば、地上部が乾燥していても、地下部が十分な水分を保持している場合は灌水を控え、根張りを促すといった判断が可能になりました。
- 水資源・肥料コストの削減: AIによる最適化された供給により、従来の経験的な管理と比較して、水使用量を約30%、肥料使用量を約20%削減することに成功しました。これは経営コストの低減に大きく貢献しています。
- 収量・品質の向上: 根にとって最適な地下部環境を維持することで、根張りが促進され、養水分吸収効率が向上しました。その結果、樹勢が安定し、果実の肥大や糖度、着色といった品質が均一化し、全体の収量が約15%増加しました。
- 土壌病害リスクの低減: 過湿状態の早期検知と精密な水管理により、根腐れなどの土壌病害の発生リスクが大幅に低減しました。
- 生育ムラの解消: 圃場内のセンサーデータを細かく分析することで、局所的な土壌条件の違いに対応した管理が可能となり、生育や品質のムラが解消されました。
- 科学的な意思決定: 地下部の見えない情報がデータとして可視化されたことで、なぜ生育が良いのか、なぜ一部で問題が発生しているのかといった原因分析が容易になり、勘や経験に頼らない科学的な営農判断が可能となりました。
成功の要因
この事例の成功は、単に新しい技術を導入しただけでなく、以下の要因が複合的に作用した結果と考えられます。
- 「見えない部分」への着目: 地上部の管理だけでなく、根域というこれまでデータ化が難しかった部分に課題の根源を見出し、そこに焦点を当てた技術選定を行ったことが重要でした。
- 多角的データの統合分析: 地下部データだけでなく、地上部、気象、過去の栽培実績など、様々なデータを統合し、AIによって多角的に分析したことが、高精度な生育モデル構築と適切な判断に繋がりました。
- 現場に即したデータ可視化: 技術ベンダーとの連携により、専門的なセンサーデータやAIの分析結果を、現場の担当者が直感的に理解できるグラフや指標としてダッシュボード化しました。これにより、技術に対する抵抗感を減らし、データに基づいた意思決定を促進しました。
- システム間のスムーズな連携: センサーネットワーク、データプラットフォーム、AI分析、そして既存の灌水・施肥システムがスムーズにデータ連携できたことが、リアルタイムかつ自動での精密管理を実現する上で不可欠でした。
- 継続的なAIモデルの改善: AIモデルは導入初期段階から完璧ではなく、実際の栽培データを取り込みながら、精度を継続的に改善していきました。技術ベンダーとA社担当者が密に連携し、現場の知見をモデル改善に反映させたことも成功の鍵です。
今後の展望
A社では、今回構築した地下部データ活用システムを、さらに高度化・他作物へ展開することを検討しています。
- 根系構造や微生物叢データの取得: 特殊な画像解析技術や土壌診断技術を組み合わせ、根の張り方や土壌微生物の状態といった、より詳細な地下部データを取得・分析することで、更なる管理の最適化を目指しています。
- 病害リスク予測の高度化: 地下部環境データと病原菌に関する知見を組み合わせ、土壌病害の発生リスクをより高精度に予測し、予防的な対策に繋げることを計画しています。
- 多角的な経営判断への活用: 地下部データを含む全ての栽培データを経営データと統合分析し、品種選定や作付け計画、販売戦略といった、より広範な経営判断に活用していくことを視野に入れています。
この事例は、スマート農業技術が地上の見える部分だけでなく、地下の隠れた世界をデータ化し、それによって全く新しいレベルの精密管理と生産性向上を可能にすることを示しています。根域センサーとAIの組み合わせは、特に地下部環境が重要な作物や、水資源・肥料コストの削減、環境負荷低減が求められる農業において、今後さらに重要なソリューションとなる可能性を秘めています。
まとめ
本記事では、高付加価値果樹栽培における、根域センサーとAIを活用した精密な水・養分管理による生産性向上事例をご紹介しました。地下部環境というこれまでブラックボックスだった領域をデータ化し、AI分析と連携させることで、水・肥料コスト削減、収量・品質向上、病害リスク低減といった具体的な成果を達成しました。この成功は、多角的なデータ統合、現場に即したデータ活用設計、そして継続的な技術改善によって支えられています。地下部データの活用は、今後のスマート農業における新たなフロンティアとして、様々な作物や経営に革新をもたらす可能性を秘めていると言えるでしょう。